代考 - テクスチャと言語化
編纂員: null

Table of Content
### 序文
“代考”。それは君たちがその内に抱いているであろう雑感を、”君たちに代わって” 私が書き留めて ”あげる” 連載のこと。一見すると太々しく思われるかもしれないが、私はただ事実を述べているに過ぎない。
今回は “テクスチャと言語化” について代考をする。テクスチャへの言及は、言わずもがな、今世界で一番 “アツい” は周知の事実である。いまいちピンと来ていない者は、今一度その胸の内に問いかけてみて欲しい。なぜならば私は “代考” をしているに過ぎないからだ。考察などでは決してない。
### 本文
その音楽のどういうところが好きなの?どうしてそんなことしているの?なぜ一緒にいるの?お前は誰ですか?
こういった具合に、世の中は ? で溢れている。そして一度 ? を受け取ったものには、明快な答弁が求められる。「好きだから」では要件を満たさず、「答弁を差し控える」ではヤジが飛んでくる。うんざりしてひとり散歩に出かけてみても、街中のデジタルサイネージや中吊り広告では、うざったい目をした奴らが一々問いかけてくるし、挙げ句、逃げ込んだ先の本屋では「言語化」と題した本が総出で帰りを待っている。危ない。このままでは破裂してしまう。
本来であれば、「だって最高じゃん?」でいいはずだし、「なんか気になったから」でいいはずだし、「なんか好きだから」でいいはずなのに。(こういう感覚を以降 “テクスチャ” と記す)
テクスチャで人はどこまででも深く繋がれるし、ありったけの元気をもらえる。それは単にその人の話し口調かもしれないし、雰囲気や態度、速さかもしれない。あるいは、詩の配置かもしれない。焚き火を眺める時間かも知れない。
何より、テクスチャを通してでしか深層には辿り着けない。言い換えれば、「なんかいいかも」と思わなければ、その映画を観ないだろうし、その人に話しかけたりしない。当然それがなければその先もない。そして何より重要なのは、良いテクスチャを形成することはそう簡単なことではない、という点だ。テクスチャと深層は相反ではなく、連続している。深層がなければ良いテクスチャは作り出せない。綺麗事を並べられても心に響かない現象はここからきている。
抽象度が高いものほどテクスチャに依存する。例えば、“詩” は “小説” よりも抽象度は高く、そのため “よくわからない” ことが多い。一方で、“なんかいい詩” に出逢えたときの INZM は計り知れず、到底説明のつかないような懐かしさや愛おしさを覚える。

私は betcover!! というバンドを愛している。しかしながら、彼らの歌詞は説明が難しい。あえて意味を込めていなかったり、心象の風景をただ描写しているだけだったりする。例えば、卵や蛇、街灯に小便を垂れている犬や肥えきった鮒に私は泣いている。嘘だと思うかもしれないが、本当の話だ。

言語化とかいよいよ本当に “うざい” だろう?厳密には、言語化自体というよりも、それが無闇矢鱈に重要視される風潮や、それをありがたがる人々の態度がうざすぎる。
言葉には意味があると誤解をしている人が多いが、言葉それ自体に意味はない。厳密には、言葉には意味が “込められている”。それは白川静が “さい” で示したように、言 (葉) は “さい” と呼ばれる容器に “神秘” を納めているのである。

言語化ブームは、テクスチャを諦めた態度を加速させている。その結果、言葉を尽くそうとする姿勢の多くは、ただ容器を並べるゲームになりつつある。だからうざい。言葉を尽くすのであれば、言葉が内包している、人間の “神秘” にアクセスしようとする姿勢こそが “本当” だろう。そのためには、個々人の感性、つまりはテクスチャを重要視するのが自然ではないだろうか。私は、いや "私たち" は、言葉そのものや出力の結果ではなく、その言葉が出てくるに至るプロセス、テクスチャをテクスチャのまま共有するための “言葉の紡ぎ” に愛を感じる。

では、テクスチャをどうやって作るのか。ただ、意味のわからないものを作れば良いわけではない。そんなことでは、宮崎駿に怒られてしまう。
待ち望んでいたところ大変申し訳ないのだが、まだオルタナを作成中である。近々お披露目できればと思うので、それまでこちらの podcast を聞いておいてほしい。
…代考しよう。

2