絹路文通 - 第二巻:ニーチェから学ぶ「れつごう」
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かつて東西を結び、人類を大きく進展させたシルクロードを現代に蘇らせよう、という企画「絹路文通 (けんろぶんつう) 」。今回は 19 世紀のドイツから「ツァラトゥストラ」を輸入した。
※ れつごうの章だけでも楽しめます
### はじめに
ニーチェといえば、「神は死んだ」やで有名なドイツの哲学者です。ツァラトゥストラとは、”ルサンチマン”や “ニヒリズム”、“超人” や “永劫回帰” をテーマを扱った、ニーチェの代表的な著作です。
19 世紀当時のドイツといえば、敬虔なプロテスタントの国であったため、禁欲的に慎ましく生きなければならない、という厳しい掟があったそうです。そんな中、ニーチェは “キリスト教”、あるいは “西洋文化” そのものを批判していたとのことで、輸入することにしました。
### ルサンチマンとニヒリズム
ルサンチマンとは ”どうしようもなさに対する無力感とそれに対する怒りを、何かに向けて発散する心の動き” で、ニーチェはこれを痛烈に批判しています。
ルサンチマンこそ、キリスト教、すなわち西洋文化の礎である「神」を生み出した根源。所詮弱者のルサンチマンだ。
つまり、どうしようもなさの受け皿として “神” を置いて、現実逃避をしているに過ぎない!と言っています。本当にどうしようもないくらい強い批判です。
彼は止まることを知りません。”神” から見て正しいかどうかによって価値が決まる “善悪” についても、続けて強い批判を残しています。
人間は「善 / 悪」の僧侶的価値ではなく、「カッコいい、面白い」という貴族的価値のほうへ価値転換をし、みずから創造性を発揮していかねばならない。
つまり、善悪のような価値観にはルサンチマンが隠されているので、面白くもカッコ良くもない、ということです。
また、ここでは “ニヒリズム” という概念も登場します。ニヒリズムとは “すべては無意味であると諦めている状態” のことです。
ニヒリズムに対しても、ニーチェは止まりません。ニヒリズムに陥った人を “未人” と揶揄し、ツァラトゥストラにおいては、最も軽蔑すべき人間と扱っています。
愛も憧れも創造も知らず、健康に気を配り、労働も慰みの程度に必要とし、平等で貧しくも富んでもおらず、わずらわしいことはすべて避ける。安楽を唯一の価値とする人間たち。
と言った具合に、ニーチェはここぞとばかりに神や西洋の態度を否定しています。ニーチェも哲学者ですから、否定するのであれば、神に代わる新たな人類の ”目標”と、聖書に代わる新たな “物語” を提示する責任があります。そこで登場するのが “超人” と “永劫回帰” です。
### 超人と永劫回帰
超人とは、”ルサンチマンやニヒリズムを抱くことなく、常に創造し続けていくような人” のことを指します。
「お前たちは自分自身で自分の道を見つけなければいけない」
ニーチェは “超人” を説明するにあたって、“永劫回帰” の概念を提唱しました。永劫回帰とは、 ”たとえ忘れてしまいたい過去であっても、人生のあらゆる出来事が永遠にそっくりそのまま繰り返される” という考え方です。ニーチェは、この永劫回帰をニヒリズムに陥る危険を孕んだものとしつつ、それを受け入れられる者こそが “超人” になりうると述べています。
「すべての『こうあった』を、『私がそう欲した』につくりかえること。これこそわたしが救済と呼びたいものだ」
言い換えると、どんな過去であっても「仕方がない」とするのではなく、全てを愛し、悦びとして思い出すこと。それが “永劫回帰” です。
とまぁ、ここまでがツァラトゥストラに込められたニーチェの思想です。以降、せっかく輸入したので、私と現代社会とニーチェを接続させたいと思います。ちなみに “れつごう” は let’s go のことです。では、れつごう。
### れつごう
一番言いたいこと。
いやてかさ、普通にかっこよくいたくね?面白くありたくね?
ニーチェの思想は、今の私のムードそのものでした。通説よりも “本当さ” の方が大事で、自由意志の実感なんかよりも “創造性” や “高揚感” のほうが大事である、というムード。実際、そういったムードは、Z 世代とラベリングされる我々の腹の底にも溜まっていると思います。
人間は「善 / 悪」の僧侶的価値ではなく、「カッコいい、面白い」という貴族的価値のほうへ価値転換をし、みずから創造性を発揮していかねばならない。
これは “本当” だと思います。実際、ルサンチマンやニヒリズムの状態はかっこよくない。だからといって「人生に夢を!目標を!」とか言いたいわけでもない。ただただ本当にかっこよくないし、本当に面白くない、というだけのことです。
とはいえ、生きていればそういった感情に飲まれそうになる。でもどうにかして抗いたい。でもまだ本当じゃないことが多すぎる。そういうとき、我々には “忘れる” という選択肢があります。私が、あなたが、あるいは時間が、これまでそうしてきました。しかしながら、ニーチェは “永劫回帰” をもってこれを否定しています。
実際、人間というのはうまくできていて、「したこと」は比較的忘れやすいですが、「してしまったこと」は、忘れたくても忘れられない。つまり、”忘れる” と言うのは、ルサンチマンやニヒリズムへの対抗として一定機能はするものの、それだけでは克服までは至らない。
これも私にとっては “本当” のことでした。実際、私は “忘れる” ということにかなり意欲的かつ肯定的だったし、ずっとそうしてきました。だからこそ、私にとってはひと時の折り合いをつけられる “タイミング” でもあった。あなたもきっとそうかもしれない。
もうひとつ。書籍でも言及されている重要な点があります。それは “しなやかさ” です。
ニーチェにとっての “超人” が、対人関係を結ばず、他者からの承認を必要としない存在、というニュアンスが強く、筆者はそれに対して問いかけを残しています。
我々は常に、”私” を生きながら、同時に ”社会” を生きています。
だからこそ、”しなやか” でなければいけない。本当にカッコよくて面白い、創造性に富んだアイデアは、誰かとの関わり合いの中でしか生まれず、そのコミュニケーションの重なりによってでしか形を得ることもなければ、その先にある “高揚” も得られないのではないでしょうか。
私はそれを見たことも聞いたこともあります。しかしながら、正直なところ、それが “本当” であるかまではわかりません。
それは実感が伴っていないからです。言い換えれば、創造的な営みをできていないからです。そんなことでは、どれだけ舌を巻こうとも、ニーチェに「所詮弱者のルサンチマンだ」と一蹴されてしまいますし、何より、かっこよくもなければ面白くもない。
なので、この場所がその補助として機能してくれることを祈りつつ、私は私のファズを踏むので、お前もお前のファズを踏んでください。れつごう。
地下熱。足元から全部焼き尽くしてやりたいよな。
次はローティかな。
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